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 福井競輪の代表選手はと問われれば市田、脇本が大方だろうが俺はちょっと遡って野原哲也の名前を挙げたい。独特の風貌と鍛え上げられた肉体。類型を探せないオリジナリティのある選手だった。優勝は井上茂徳、吉岡稔真2着で本人3着の1991年・福井ふるさとダービーは記憶に薄いが、それより旧い本人8着の1985年・一宮オールスターの競走を鮮明に憶えている。中野浩一の捲りを差した高橋健二の優勝、高橋美行3着で地元ファン万々歳の終幕となるのだが、その前段階、51期の野原哲也と52期の前田義秋の叩き合いが凄まじかったのだ。
 確かVТRがあった筈だと部屋を引っ繰り返し探しているのだが見つからない。捨ててしまったのだろうか。

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500バンクの西武園記念だったと記憶するがもしかしたら京王閣の記念かもしれない。
最終の準決は◎某の捲りで一本被り、枠番連勝単式の車券は筋で百八十円、どこに抜けても千円以下の配当だった。しかし某は悪い癖が出て七番手不発、場内は騒然だ。うなだれながら敢闘門まで引き揚げる某に容赦ない野次と紙新聞が飛ぶ。一万二万入場の時代だから紙新聞の数も半端じゃない。しかも捩じって投げ易くしているものだから某への命中精度もまあまあ高い。某には辛いバンク半周となったが、紙新聞が放物線を描き吹雪のように舞うバンクは妙に綺麗だった。

500バンクの西武園競輪場が400になったのは何年だったろう。
走路だけじゃなく全容がイタリア風の石を基調としたモダンな建築となり、
旧競輪場の面影を残すのは三コーナーと四コーナー間に聳えるスタンドだけとなった。
昔は西武線の〈国分寺~西武園〉直通電車が一時間に三本走っていた。
〈西武新宿~西武園〉もけっこうな本数だったと記憶する。
東村山駅(各方面からの乗り継ぎで停車時間があった)では威勢の良い売り子が車内に乗り込み「青競」と「黒競」を捌いていた。
競輪場の入口付近ではガリ版刷りの予想新聞を百円で売る初老の男もいた。商標は「シュミケイ」だったか「趣味の競輪」だったか……、記憶に自信がない。
手には切り抜いた日刊スポーツの競輪欄と専門紙、場内すぐの売店でプラスチックのパックに二個詰めの赤飯握飯を必ず買った。
長髪痩身の若かった俺が金網越しを往く。

昔の川崎競輪場の混雑を忘れないでいる。客のはけをよくするため最終の一つ前が決勝だったなんて今からすると嘘みたいな話だ。最終10Rの敗者戦だけを買いにタクシーを飛ばしたことがあった。坂本勉と太田雅士の長い写真判定の日も、停電で残りの競走が中止になって大騒ぎだったときも俺は川崎にいた。

一年ぶりの川崎競輪場だ。「メッカ」と称された川崎に年一とは己の怠惰を嘆くしかない。
宴席の過半が去年以来なのだがそんな気にならぬのは仲間の親しみゆえか、俺の経年がいよいよ加速を増しているからだろう。用意した話題の半分も喋れなかったが、なァに、来年に繰り越せばいいだけのこと。
テレビの特番で佐藤友和が大ギヤの競輪を力と力の競輪になった、新しい競輪を楽しんで欲しいと語っていた。4回転に踏ん切るのを逡巡した経験を交えて喋る佐藤は立て板に水で此方も惹き込まれるが、旧派の俺は素直には肯けない。だけど佐藤の新しい競輪を楽しむは新しい車券の買い方をせよと背中を押されたようで括目だった(遅すぎるかァ)。
選手のギヤを二人組になって読み合わせ校正する作業がアオケイにはある。64、85、4回転、92、4・08……、3回転台は省略が習わしだったが今やS級はほとんど4回転以上だ。08、15、00、3・71……、と「4」を端折る方が世話なしとなった。
大ギヤは「競輪」を変えたが我社の「ルーチン」も変えた。
 

準決の深谷知広の走りにはぞくっとする感動を覚えた。大ギヤ特有の一本調子の競走を好まない俺だが、今日の〈10秒6〉はテレビ観戦でも俺の背骨を立たせた。立川競輪場に居たファンは幸運、まさに「いいドラマ観たなぁ」だろう。
破られた遠沢健二の〈10秒9〉は20年前の当地ダービーで記録されている。確か二次予選だったか。その開催の優勝は海田和裕、雨中の逃げ切りだった。海田の番手を巡って競り合いの展開だったと思う。俺は海田から当時ハコ勝負で売り出していた大竹慎吾への車券をまあまあの枚数持っていた。ゴール後、小躍りしたのも束の間、大竹は2着失格、繰り上がったのが遠沢だった。深谷のバンク・レコードが二十年前の悔しさを掘り起こす。

 
まだ今の空中バンクではない平競輪場だったから随分昔の話だ。
出張の記者連中と覗いたフィリピンパブで地元の某選手と出くわしたことがあった。女性と腕を組みながら熱唱していた某は俺らに気づき、ちょっと困ったような表情になった。まあまあ強かった某は取材では取っつきにくい部類の選手だった。店では二三言葉を交わしただけだったが、後日関東の競輪場で某に会うと、妙に優しい態度で接してくるので俺は可笑しくなった。と同時に某に親しみを感じるようになった。
出張の夜の何日かはカラオケになる。♪ルイジアナ テネシー シカゴ 遥かロスアンジェルスまで きつい旅だぜ お前にわかるかい あのトラベリン・バスに 揺られて暮らすのは。俺は矢沢の「トラベリン・バス」の地名の箇所を♪広島 立川 平 遥か武雄温泉まで、などと替えてよく歌った。車券・仕事・酒場。地方の競輪場への出張は「きつい旅」なのだ。
 
 

昨日、二月九日は競輪評論家、鈴木保巳さんの祥月命日である。「内から抜けて一着の選手の翌日は軽視」「捲り屋が先行した翌日は買いだ」……、鈴木さんから教わった競輪警句は多い。とにかく話の「抽斗」が豊富な人だった。元高校球児のバッティング理論は現役(と言っても早起き草野球だが)の俺に響いたし、芸能界の与太話は毎度洒落が効いていた。晩年は喉を患い声量が衰えながら、それを補うに余りある仕方話で笑いを撒いていた。
天国から観戦する保巳さんの考察「ミッド・ナイト競輪」を拝聴したいものだ。

  競輪をやり始めのころ吃驚したのは◎×の配当の良さだった。競輪競走独特の筋を理解していなかったから、◎○が二百円なのに◎×が千五百円は不思議で、よくその車券を買った。最初は場内で飛び交う「競輪用語」が理解できなかった。阿佐田哲也の「競輪教科書」、三恵書房の入門書、内外タイムスの川上信定のコラム……、等々で勉強した。読んで教わり現場で確かめる。そんな日々が続いた。そして或る日、私は〈R太郎〉に遇うことになる。
 〈R太郎〉は京王閣と立川に台を持つ予想屋だった。中肉中背・黒眼鏡、いかにも予想屋風の帽子を被っていた。声は予想屋でございの濁声ではなかったと思うが、それでも太めの声音だったと記憶する。京王閣の持ち場は確か二コーナー付近だ。私は人だかりの後ろの方で〈R太郎〉の講釈に耳を傾けていた。只聞きばかりでは悪いから、たまに百円玉で紙切れの予想を買ったりもした。本や新聞からの私のまだ生木のような〈競輪理論〉に奴の弁舌を溶かし込む日々。〈目的意識と自然成長〉などと記せば青臭いが、お前の競輪の師匠は誰ぞと訊かれれば、〈R太郎〉と私は答えるだろう。
 通い詰めの季節が三十年前。最後に〈R太郎〉の姿を見たのは十五、六年前、否二十年経っているか。時折〈R太郎〉の台を訪ねてみようかとも思ったりするが、時空が逆回転する恐怖が起こり躊躇ってしまう。

幼少のころ、仲見世の商店街で玩具の刀が欲しいと座り込み両親を困らせたことがあった。五十年近く前の話だ。
大賑わいの通りを歩く。2013年にもまだ刀は店の中ほどに置かれていた。今頃の子供でこんな物を欲しがる奴などいるのかしら。
結構な時間を待たされながら大勢の人々が何某かを祈り願う。
昔、立川駅のタクシー乗り場でK選手と出くわした。一緒に競輪場までと私が誘うと、神社だったかお寺だったか、立川の競走に参加する前には必ず参る場所があるので……とKは申し訳なさそうに言い、別々の車となった。神仏と競輪選手なぞと書けば大仰にすぎるが、以後のKのレースを見るとき、私はKが落車せぬようにと軽く何かに願うようになった。

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